宣言というかそういうものの仮設足場

小説を書く、もっといえば文字を書くというのは不思議な経験だ。

瓶と名前の紙は水平線を突き破って青空に飛び出し、海に向かって落ちてゆく。

こういう文章を書いたとして(書いたんだけど)この文字を読むひとによって浮かぶ風景の細部には違いがあってもそれなりに同じようなイメージが架空に出現にする。それもこの文字を読むたびにだ。

「文字を書く」ということの魅力は多分この不思議さに尽きている。少なくとも僕が文字に心を惹かれる理由はこの現象、文字を書きそれを読むたびに感触のある世界(ありありと想像が浮かぶ時間の流れ)が立ち上がることの不思議さに尽きている。

僕は、文字は意味/意志/理由/考え、なんでもいいけれどそういった類のものを伝達するためのものではないと思っている。それらを伝達することは可能なことは確かだけれど、それは言葉にとって些細なことだ。それらは時間の流れを生まない、フィクションを作り出さない、正確にいえば現実とフィクションの境目などないのだということ(これは以前に記事で書いた)を想起させない、たんに自分と他者を繋ぐが断ち切るかの、いってみれば「社会的な」作用でしかない。

風景は、因果律、つまり世界が「こうである」ことを理由づけることから根本的に乖離している。風景は世界の理由を与えてくれない、そして僕はこれこそが一番の小説の凄さだと思うのだけれど、風景を書き続けるだけでその言葉の束は小説になるということだ。風景の連続、そういう文章の束から僕たちは意味「のようなもの」を受け取れる、しかしそれはどこまでいっても意味「のようなもの」でしかない、そういうものを僕たちは小説(のひとつ)として認識できる、あるいは詩もそうかもしれない。小説の面白さはストーリーにあると思っているひと(僕はべつにそれを否定はしない)は、要は小説は理由の連続だと考えている。「どうして主人公は○○したのか」「ここの心情変化があの行動に結びついた」「この表現は現代社会のメタファーだ」云々、それはすべて理由の提示だ、それこそがストーリーをつくる。ストーリーは互いを結びつける。理由によって他者を理解したり説得したり否定する。それがコミュニケーション、というのは本当だろうか? 小説の、文字を書いて読むことの不思議さはそういう部分にあるのだろうか? 断片的な世界のショット、それらを並列して書いて束になったものを僕たちは連続している「かのように」読めてしまうことがほんとうに本当の不思議さだ。その並列さ、パラレルな位置にありながら順番のある文章の束、それらは意味や理由から離れながら互いを損なわない。それでも時間が流れる、それこそが世界を肯定するということだ。