習作その1'について

 年明けの1月末から6月末の5ヶ月間にかけて去年書いた小説を書き直したので、そのメモを残しておくぞ。

 去年書き終わったときにもメモを残していて、そこには

長さとしては原稿用紙で約125枚になった。小説のなかの時間としては夜から朝にかけてからだからだいたい半日を書いたことになる。けっこうこれくらいが限界というか、逆に125枚は書けるなあとわかった

 とある。それが今回の書き直しで約256枚になった。倍以上。話しの筋は変わってない。去年の限界と思っていたことを分量で大きく成長できたことはとても嬉しい。書ける量が増えたというのは素朴な指標だけれどわかりやすく成長を感じる。

 前に書いたとき時点で何度も推敲したものだったけれど、年明けにあらためて読み返してみると、読みにくい箇所や不自然な繋ぎ、記述が薄いところがたくさんあった。全体の流れはいいんだけど自分が理想としているテンポではないなと思った。小説全体として厚みが足りない感じを持った。去年書き終えてしばらくは誤字とかはべつにして穴はないだろうと思っていたから、しばらく時間を置いてから振り返るのは大事だなと(素朴に)思いました。

 読みにくい箇所、文章の不自然な繋ぎ、記述の薄さはなにに起因していたのか

①主語が長い

 これは考えれば当たり前のことで一々書くのもレベルが低いんだけど、とくに風景描写をしているとどうしても修飾語(形容詞・節)の要素が多くなっていって、要素が多いとそれだけ読み手の視点が動いてしまって読みにくくなるんだよね。書き手は風景を思い浮かべながら何度も推敲するから視点が動いてもその順に理解しやすい(描こうとしている風景がわかっているから)けれど、読む手はふつう一回した文章を読まないという前提に立つと、ごくふつうに風景を思い浮かべることができない。よく友達数人は読んでくれたなと思った。とくに段落の最初の文はシンプルというか風景全体をぱっと思い浮かべられる言葉にする必要がある。定量的にいえば主語一つ述語一つ、長くても述語は二つまでが妥当で、プラス主語にかかる修飾語は二つが限度だと思った。一文目で大事なのは読み手に風景を喚起させることで、喚起させる言葉であれば、具体的な風景(視覚だけでなく聴覚や嗅覚でも)でも抽象的な言葉でもかまわないんだと思う。去年書いていたときは意図的に後者を避けていた。とにかく風景を書くことがこの小説のきもだから抽象的な言葉をつかわないようにしていた。けれどそれは書き手がすでに風景をわかっているから可能なのであって、読む手には負担のかかる文章構成だった。アングルが変わるときに大事なのは読み手に記憶や風景を喚起することで、それさえできればその後が多少アクロバティックな文章になっても読んでいける。だから書き直していると、長い一文を二文にする作業が多かった。映像で喩えると、去年書いたバージョンは最初から対象物に寄り過ぎている。最初のショットで短くてもいいから全体像を映してそれから寄っていけば、寄ったあとに多少カメラに動きがあってもけっこう付いていけると思う。

②同じ段落でアングルが変わり過ぎている

 一言でいえば改行への意識が変わった。去年のバージョンは「この段落は風景描写」「この段落は考えが広がっていく過程」のような切れ目のよさを意識していたけれど、読み返してみると文と文に不自然な繋がりが多々あった。不自然さというのは論理的にというよりアングルとして不自然だった。たとえば車で走っているシーンで実際にA→B→Cの順に建物をみたとしても、文章で「Aがあった。向かいにはBがあった。少し進むとCがあった」と書くと、読んでみるとぎこちなさを感じる。それは文章で書くとどうしても、AはA、BはB、CはCというように、パッパッパッと切り替わる印象を与えてしまって途切れているように(実際は車で進みながら見ているから3つは滑らかなはず)感じるからだと思う。つまり、ほんとうは視点を固定して一方向に向かっているのに、アングルを切り替えているように読めてしまうからだと思う。

 それで、まず前者(視点を固定して一方向に向かっている)を書きたいのなら、どんなに一文が長くなっても「。」で区切らない方がいい。ということは①と合わせて考えると、つまりそういう文章は一文目には持ってこない方がいいということになる。次に後者(アングルを切り替える)を書きたいのなら、そこでばんばん改行したほうがいいと思う。一段落に一文は、きもになるような言葉やメッセージには有効だけれど、ふつうの風景であればたんに描写ができていない印象を与えるから付随する要素も含めてできれば四文、少なくとも三文は欲しくなるから(これは僕の感覚です)そうすると小説全体の分厚さに自然と繋がっていく。逆にそれがあるからこそ一段落に一文の部分がきらめいていくんだよね。去年のバージョンを読んだときのある種の薄さは、描写の対象物は多いのだけど対象物ひとつひとつをじつはちゃんと書けていなかったからなんだとわかった。去年の自分は対象物の多さに満足していたということですね。

 加えて改行は、それ自体アングルが変わる気持ちよさがある。アニメでも(それこそエヴァがそうだけど)素早いアングルの切り替えやアングルの移り変わりが魅力になることは多々あるし、それがあるから止めの映像が引き立つ。ある種のメリハリですね。小説もそうだよなと思っていて、改行でリズムをつくるができる。改行のリズムの気持ちよさは描写や内容とは無関係の、文字独特の魅力でもある。

③文章量とリズム

 ①と②で書いたことと重なるけれど、今回書き直してみてよかったのは自分が「うまく書けてるな」と思う段落内の文章の量とリズムをけっこう定量的に把握できるようになったこと。ざっくりいえば、

  • 一段落に文章は四つ(少なくとも三文)
  • 一文目はシンプルに書く
  • 二文目は一文を補強するような形で、長くなってもいいけど展開するようなことは書かない
  • 三文目は二文目とリズムを変えるといいことが多い。二文目が長ければ三文目は短めに。あと内容がそれまでの描写から飛躍してもわりと自然と読める
  • 四文目は抽象的な言葉や心情を書いても「やってるぞ感」が薄い。むしろ余韻があって、スムーズに次の段落に繋げられる。

 もちろん上記以外を書くこともある。でも上記を基本としておくと「そこから外す」という効果が生まれるから、そういう大きい意味でのリズムをつくることができる。だから上記の条件はいってみればベースやドラムみたいなもので、去年の小説はきらめくリフはところどころあるけれどそもそも四つ打ちがままならない(自分の好きな基本リズムがわかっていない)状態で曲をつくっているようなものだった。書き終わったときはきらめくリフだけを覚えているから過大評価をしてしまうんだよね。

 最後にリズムでいえば時制(現在形・過去形・進行形)の感覚も掴めてきた。去年のバージョンは、現在形を多用することで喚起力を狙っていたんだけど、読み返してみると現在形が二文続くとけっこう違和感があったんだよね。現在形は独特の印象を与えるのは確かだけれど、文章が束になると不安定感が増すというか、少なくとも今の自分の力量だとそうならざるを得ない。現在形は段落の最初か最後の文が一番効果を発揮するような気がするし、無理して現在形で「独特な」小説を狙うよりはふつうに過去形で重ねたほうが小説全体として安定感がある(そう考えるとやっぱり海辺のカフカはすげえ)。

ざっくり書いたけどこんなとこです。

内容的には去年のバージョンで小説内の短編としてさらっと書いた部分をしっかり書いたことで「名前をつける」という部分やフィクションへの考え方について思考が進んだ(が自分でも自分が書いた意味を100パーセントは理解できていない)のでそれもいつか書くかもしれない。

エヴァでいってた「現実と想像が対になっていて、お互いをフィクションが繋ぐ」という言葉はかなり考えさせられた。それも含めていろいろとまた考えが進んでいます。

宣言というかそういうものの仮設足場

小説を書く、もっといえば文字を書くというのは不思議な経験だ。

瓶と名前の紙は水平線を突き破って青空に飛び出し、海に向かって落ちてゆく。

こういう文章を書いたとして(書いたんだけど)この文字を読むひとによって浮かぶ風景の細部には違いがあってもそれなりに同じようなイメージが架空に出現にする。それもこの文字を読むたびにだ。

「文字を書く」ということの魅力は多分この不思議さに尽きている。少なくとも僕が文字に心を惹かれる理由はこの現象、文字を書きそれを読むたびに感触のある世界(ありありと想像が浮かぶ時間の流れ)が立ち上がることの不思議さに尽きている。

僕は、文字は意味/意志/理由/考え、なんでもいいけれどそういった類のものを伝達するためのものではないと思っている。それらを伝達することは可能なことは確かだけれど、それは言葉にとって些細なことだ。それらは時間の流れを生まない、フィクションを作り出さない、正確にいえば現実とフィクションの境目などないのだということ(これは以前に記事で書いた)を想起させない、たんに自分と他者を繋ぐが断ち切るかの、いってみれば「社会的な」作用でしかない。

風景は、因果律、つまり世界が「こうである」ことを理由づけることから根本的に乖離している。風景は世界の理由を与えてくれない、そして僕はこれこそが一番の小説の凄さだと思うのだけれど、風景を書き続けるだけでその言葉の束は小説になるということだ。風景の連続、そういう文章の束から僕たちは意味「のようなもの」を受け取れる、しかしそれはどこまでいっても意味「のようなもの」でしかない、そういうものを僕たちは小説(のひとつ)として認識できる、あるいは詩もそうかもしれない。小説の面白さはストーリーにあると思っているひと(僕はべつにそれを否定はしない)は、要は小説は理由の連続だと考えている。「どうして主人公は○○したのか」「ここの心情変化があの行動に結びついた」「この表現は現代社会のメタファーだ」云々、それはすべて理由の提示だ、それこそがストーリーをつくる。ストーリーは互いを結びつける。理由によって他者を理解したり説得したり否定する。それがコミュニケーション、というのは本当だろうか? 小説の、文字を書いて読むことの不思議さはそういう部分にあるのだろうか? 断片的な世界のショット、それらを並列して書いて束になったものを僕たちは連続している「かのように」読めてしまうことがほんとうに本当の不思議さだ。その並列さ、パラレルな位置にありながら順番のある文章の束、それらは意味や理由から離れながら互いを損なわない。それでも時間が流れる、それこそが世界を肯定するということだ。

 

 

習作?その1について

 このあいだ小説を書いたけれど、あらかじめ「これについて書きたい」というテーマがあったわけではなくて、そのかわりに、いくつかルールを決めた。一つ目は「時間を飛ばさない」ということ、二つ目は「一人称で書く」こと、三つ目は「三人称の心理描写を書かない」こと、四つ目は「地名を限定しない」こと。

 一つ目の「時間を飛ばさない」というのは、「次の日の朝〜」とか「何日か経って〜」とかを使わないということで、つまり場面転換をしないということです。基本的にほとんどの小説は時間を飛ばしている。それは、それなりの時間が必要な物語(たとえば大学四年生の一年とか)とか、そういうものを書く場合に一年間の一日ずつを全部書くわけにはいかない。一年間のうち重要なことが起こる日を書くわけで、そうじゃないと一年がかりの大きな物語を書くことはできない。

 ただ僕は、重要なことが起こる日よりも、ほとんどなにも起きない日のほうが人生の時間で圧倒的に長いし、重要なことが起きた日であっても一日中ずうっときらめているわけではなくて、きらめきは一瞬のはずだと考えていて、そういう、ほとんどなにも起きない日や時間の分厚さこそが人生を肯定するんじゃないかと思っている。だからなるべく物語が加速しすぎないように(重要なことばかりを書かないように)するために「時間を飛ばさない」というルールをつくって書いた。それで実際に書き切ってみて、長さとしては原稿用紙で約125枚になった。小説のなかの時間としては夜から朝にかけてからだからだいたい半日を書いたことになる。けっこうこれくらいが限界というか、逆に125枚は書けるなあとわかったのはとても良いことだった。

 「時間を飛ばさずに書く」と初めは会話ばっかりになってしまった。でも会話ばかりだと、それはべつに小説として書く必要がないわけだから、第一稿からカウントすると最終稿では会話は30%くらいは切って、そのかわりに風景描写と「僕」がぼんやり考えていることの描写を増やした。このとき注意したのは、だらだら「思想」を書き連ねないという点で、それは「三人称の心理描写を書かない」ことと繋がるけれど、思想を書くために小説を書くわけではないからだ。だからぼんやり考えていることを描写するときは、必ず風景か会話がまず先にあって、それに引きづられる形で考える、という流れになっている。初めはこういう「思想」もなるべく書かずにいたのだけれど、風景と会話ばかりになるとそれはそれで不自然だった(僕たちはふだん色々考えているわけだし)。それで色々考えてみたら、そもそも「思想」は風景の一部だよなと腑に落ちたので、「思想」を風景と会話からひきづって展開させる形で第一稿よりボリュームを増やした。

 ちなみに「思想」は風景の一部というのは、たとえば海を眺めているといつの間にか幸せについて考えることはあるけれど、幸せについて考えているといつの間にか海を想像することは多分なくて、だから風景のなかにすでに「思想」は含まれているんじゃないか、と思ったということです。

 二つ目の「一人称で書く」というのは、自分にとって一人称が一番ごく自然に小説を書けるなと思ったからで、とくに悩まずにそれでスタートした。一人称だからといって、それが作者自身と一致しているわけではない。なんというか、GoogleMapだったら通常の地図よりもストリートビューのほうが小説を書くうえではしっくりくるなと思った。

 ただ、ひとつ工夫したのは「僕は」という表現以上に「僕たちは」という一人称複数形を多用したこと。一人称複数系は、まずは小説のなかの登場人物たちを指しつつも、文章によっては読み手や一般的な僕たち(ふつうにこの世界で生きている僕たち)も含まれるような余地を残すことで、この世界と小説のなかの世界の境界をあいまいにするような効果があるんじゃないか、ということを書きながら思って面白かったし、それがわかったことは収穫だった。

 三つ目の「三人称の心理描写を書かない」というのは、まずは一人称ならそのほかの人の内面を知りようがないのが自然だと思うからだけれど、とはいえ、べつに小説(フィクション)なのだから現実には不自然なことでも書いたっていいと思っている。実際、僕は小説のなかで一人称ならみえていないはずの風景をいくつか書いている。でもたぶん、読んでいてそこの部分に強烈な違和感を覚えることはないと思う。それこそが小説の面白い部分なのだけど、じゃあどうして「三人称の心理描写を書かない」のかというと、端的に心理描写そのものを書きたいという気持ちが全然なかったからだ。振り返ってみても、今回の小説のなかで、一人称でも、たとえば「〜で悲しくなった」とかは書いていないと思う。考えていること、思ったことを書いた部分はあるけれど、それはべつに心理描写ではない。心理の揺れ動くさま云々が小説にとって大事な要素だと思わなかったし、そもそも悲しい気持ちになったことを「悲しい気持ちになった」と書かずに表現するのが小説(に限らず創作)なんじゃないかと僕は思っている。つまり「悲しい気持ちになった」と書いたって零れ落ちてしまうものがあって、それを拾い上げるのが小説なはずだ。前回・前々回のブログで書いたことに引きつけていえば、「悲しい気持ちになった」という言葉には〈時間が流れていない〉。

 最後の「地名を限定しない」というのは、読み手が「この物語って自分の知っている風景となんか似ているなあ」と思ってもらうために実在する地名が邪魔なのと、実在する地名がすでに持っているイメージで自分の小説が下駄を履いてしまうことを避けるためです。これも前回・前々回に書いたことでいえば〈記憶を喚起する〉ということで、たとえば渋谷という文字を使うと現実の渋谷に小説のイメージが引っ張られてしまって、渋谷を知っているひととそうでないひとで落差が生まれるのが嫌だなと思った。渋谷を知っているひとにとっては「渋谷」という文字を書くだけで記憶を喚起しやすいけれど、それは小説の力ではない。

 今回の小説の舞台は、具体的にちゃんとどこかモデルの街があるわけではなくて、部分部分で「この交差点はあの時にみた○○を参考にしよう」程度のものです。だから100%の想像というわけでもないし、そのほうが描写にリアリティ(これは読み手のというより書いている自分にとっての)があるなというのは書きながら思った。もちろんこれから、地名を明らかにした小説を書くかもしれないけれど、まずは現実の地名に手助けされずに書けるトレーニングが必要だよなと今回は考えました。

 ざっと忘れないうちにまとめておく。

 次は前回のブログの続きを(ほんとうに)書くぞ。

時間が流れること、コピー、芸術2

 前回の記事でいいたかったことをひとことで要約すると、

フィクションは無数のA'=可能世界を生み出し、そういうフィクションをつうじてしか僕たちは現実に触れることはできない、

ということになる。つまり

あるフィクションの時間の流れに身を置くことで、記憶のなかにある、いつの日かの時間の流れのコピーを喚起し、それがまた現実と重なり合う「かのように感じる」。そういう無数の遠回りや勘違いをつうじて、僕たちはようやく現実の輪郭をなぞることができる

のであり、そして

そういう現実とは少しずれた場所にたしかに流れている時間をつくり僕たちの記憶を喚起するものを芸術と呼んでいる

 というのがひとまずの結論になっている。

 今回は僕がよく使っている「可能世界」という言葉について、少し補足の説明したい。というのも、可能世界という言葉は多義的というか雰囲気で使えてしまう言葉でもあり、僕自身もその「雰囲気」によって本当は考えなくてはいけない点がぼやけているように思えたからだ。では僕は可能世界という言葉をどういう意味で使っているのか、詳しく整理してみたい。

 まず最初に僕の思想?(考え?)の根本を明確にする。僕は、世界は「この世界」のたったひとつしか存在しない、と思っている。ここはまず議論のスタート地点として明確にしておきたい。だから、いくらでも他の世界がありえたし、そういうべつの世界がどこかに存在している、もっといえば「この世界」は間違っていて「べつの世界」があるべきものだ、とはまったく考えていない。この文章で僕が同意できるのは「いくらでも他の世界がありえた」の部分までだ。では、どこにも存在しないはずの別の世界、つまり可能世界をつうじて現実に触れるとはどういうことなのか、それについて説明をしたい。

 可能世界ととても似ている言葉に並行世界(パラレルワールド)という言葉がある。辞書的に明確な定義があるわけではないけれど、この二つの言葉には違う印象を僕は受けている。並行世界は、現実の「この世界」とは異なる「べつの世界」が存在していることを暗に肯定している文脈で使われている。他方で可能世界は、現実の「この世界」のある瞬間に分岐(あのときこうしていたら/しなかったら)があり、現実の自分が選択しなかったほうの世界を指しているのではないだろうか。つまり可能世界という言葉は「自分が選択しなかったほうの世界の存在」を肯定しているわけではなさそうだ、という雰囲気で僕は可能世界という言葉を使ってきた。しかしそれによって議論が粗くなっていることがわかってきた。

 ここで、そもそもなぜ僕がこんなこと(可能世界だとかフィクションだとか芸術だとか)を書いているのかをきちんと書いておきたい。つまりこれは僕にとっての実存の問題だ。それはひとことでいえば、僕らはどうすれば「この世界」を肯定できるのだろうか、ということだ。そのことだけを巡って僕はこの文章を書いている。だから可能世界は、うっとうしい「この世界」の逃避場所として考えているわけではない。ほんとうはこんな輝かしい未来があったはずなのになぜ現実はこんなにクソなのか、ということの慰めに可能世界を代用したいわけではない(もちろんそう思うことはあるけどね)。そうではなく、僕の考えをシンプルに結論だけ書けば、可能世界を想像することが「この世界」を肯定することを可能にする、ということだ。ここまで書けば、僕が世界は「この世界」のたったひとつしか存在しないと思っていることが少し理解してもらいやすくなったかと思う。

 では僕が可能世界という言葉を使って表現したかったものはなんだろうか。僕の可能世界という言葉の定義は「ありありと想像が浮かぶ時間の流れ」のことだ。だから、実際に自分が体験した小さい頃の記憶も、いちども行ったことのない場所やたとえばアニメーションの風景でも〈それをありありと想像することができて、その想像に身を浸すことができれば〉それは僕のいう可能世界である。たぶんこの解釈は独特なものだと思うし、だから議論がうまく整理できていないのだと思う(ということが最近わかってきた)。つまり、へんな話しだけれど、分岐がなくても(たとえばアニメーションは自分の人生そのものではないのだから分岐はない)可能世界になる。もちろん分岐したべつの世界も、それをありありと想像することができて、その想像に身を浸すことができれば可能世界だ。

 要するに、僕のいいたいことに対して可能世界という言葉のチョイスはよくなかった笑。雰囲気で可能世界という言葉を使っていました。というわけで、今後はべつの言葉でいい変えようと思う。なにがぴったりくるかなあと考えてみて、とりあえず今後は「感触のある世界」と表現します。つまり

   ○ 可能世界→感触のある世界=ありありと想像が浮かぶ時間の流れ

 だからこれまで僕が書いてきたことをあらためて整理してまとめると、

  • フィクションは無数のA'=感触のある世界を生み出し、そういうフィクションをつうじてしか僕たちは現実に触れることはできない
  • ありありと想像が浮かぶ時間の流れが「この世界」を肯定することを可能にする

ということになります。

 最後に、いちども行ったことのない場所やたとえばアニメーションの風景でも〈それをありありと想像することができて、その想像に身を浸すことができれば〉それは僕のいう可能世界=感触のある世界である、という部分について少し詳しく書きたい。僕はつねにありありと想像できるということが大事だと考えてきた。だからこそ「もしアフリカの貧しい子供に生まれたら〜」といった類いにたいする想像力は、あまり意味がないと考えてきた。もちろん実際にアフリカに行ったり、友達にアフリカの国出身のひとがいて、そこから生まれる想像はとても意味があると思っている。なぜなら、想像のきっかけにリアリティがあるからだ。だからこそ、色々な場所に行くことや様々なひとに出会うような場所にいることはとても大事なことだと思う。想像の起点にリアリティがなければ、どれだけ正しい内容であっても言葉は空転してやがて発話者は自壊する。それは、たとえば学生運動が次第に先鋭化し内ゲバを起こした挙句に最期は自滅したことからもわかるだろう。経験に紐づかないリアリティの欠いたイデオロギーは内容によらず自壊する、僕はそう考えている(その理由は長くなりそうなので書けないけれど、簡単にいえば、言葉が意味を加速していく速度に身体の実感がついていかない、ということになる)。

 ではどうして僕は、いちども行ったことのない場所やたとえばアニメーションの風景でも条件を満たせば感触のある世界になると書いたのか、その理屈を整理してみたい。たとえば、ある作品に海の描写があって、それで風景Aが思い浮かぶ。今度はべつの作品にも海の描写があって、それで風景Bが思い浮かんだ。さらにべつの…と続けば海の描写で風景N(N=1,2,3,…)が思い浮かぶと、とりあえず図式的にはいっていいだろう。このとき、風景K(K=1,2,3,…N)は、ほかの風景L(L=1,2,3…N, L ≠ K)の影響を受けていないといえるだろうか。僕は、それはいえないと考えている。つまり、感触のある世界が「実際に眺めた海」なのか「作品でみた海」なのか「むかし作品をみたときに思い起こしたフィクションの海」なのか、そのどれなのかを決定することは原理的に不可能だと僕は考えている。懐かしいと感じる海の風景は、部分的にはかつて自分が妄想した(捏造した)海なのかもしれない、なにかの作品でみた海なのかもしれない。そこに境界線を引くことはむずかしいだろうと僕は思っている。つまり、記憶は現実とフィクションと妄想が入り混じってできている。同時に大事なのは、現実に海を眺めているときも、作品のなかの海に触れているときも、海を眺めている妄想をしているときも、等しく「この世界」の時間が流れているということ、つまり海を経験しているということだ。そこに僕のいうリアリティが担保されている。だから、フィクションでも感触のある世界になる。それが僕のいいたいことの理論になっている。

 最後に今回の内容をまとめてみます。

  • 僕がこれまで可能世界と呼んでいたのものは「ありありと想像が浮かぶ時間の流れ」のことであり、今後は「感触のある世界」という言葉を使っていく。
  • 芸術がつくりだすフィクションのなかの時間に身を置くことで感触のある世界が生まれ、それが現実の「この世界」に重なり合う「かのように」感じることの積み重ねで、僕らは現実の輪郭をおぼろげながらなぞることができる。
  • ありありと想像が浮かぶ時間の流れ=感触のある世界が「この世界」を肯定することを可能にする。
  • 感触のある世界は、フィクションによって作り出される僕たちの記憶のコピーである。
  • 僕たちの記憶は、現実/フィクション/妄想が入り混じってできていて、それらの境界線を引くことはできない(なにが現実でなにがフィクション・妄想なのかを判断することはできない)。
  • 現実/フィクション/妄想は、どれもそれに触れているあいだ等しく「この世界」の時間が流れているという点でリアリティを持っている。

こんなところでしょうか。

 というわけで次は「どうしてありありと想像が浮かぶ時間の流れ=感触のある世界が「この世界」を肯定することを可能にするのか」について書く予定です。ちゃんと結論までたどり着けるのだろうか…。

 

時間が流れること、コピー、芸術

過去の出来事が「本当に」起きたことなのかどうか、それを「事実」として提示することを僕たちはできるのだろうか。

僕たちは自分自身が体験したことであっても、それを1秒1秒鮮明に連続して思い出すことはほとんどできない。断片的に風景や会話を思い浮かべるのがせいぜいできることで、それだってどこまで「本当」のものなのか、脚色はないのかという境界線は鮮明ではない。

昨日の夜ご飯に生姜焼きを食べたとする。その「生姜焼きを食べた」というのは事実として正しいとしても、豚肉を噛んでいるときの味わいをいま再現できるかというと、それは不可能だといっていいと思う。

昨日のことだから、食べたことは疑いようがない。けれど、食べているときの味わいは再現できない。つまり味わいは、食べているときの時間の流れのなかにしか存在しないことになる。

過去の出来事はつねに「それはなかったかもしれない」という訂正可能性にさらされている。いいかえれば、僕たちはすべての出来事にたいして「それはなかったかもしれない」と原理的に想像することができる。なぜなら「事実」としての出来事は単語や1センテンスで表される言葉だから、その言葉にたいして僕たちはその気になれば「それはなかったかもしれない」という言葉を付け加えることができる。

けれど時間の流れ(たとえばまさに食べているときに流れる時間)に「それはなかったかもしれない」と付け加えることはできるだろうか。僕はできないと思っている。なぜなら、時間の流れは言語ではないからだ。「生姜焼きを食べた」という「事実」にたいしては「それはなかったかもしれない」を付け加えることができる。けれども、生姜焼きを食べている時間の流れを言葉で訂正することはできない。

味わいは、つまり時間の流れは、再現もできなければ訂正もできない。いいかえれば、たしかにこの世界に流れていた時間は、存在していたことは否定できない(訂正できない)にもかかわらずその時間の流れのなかに僕たちがもういちど浸ることは許されない、そういうものだと考えることができる。

僕たちが幸せを感じるときはいつだろうか。ただぼおっと海を眺めている、ペットとじゃれあう、帰り道の踏切で電車が通過するのを待ちながらみる夕焼け、家族や恋人と他愛ない会話をしている、友達と手放しで面白いことをしている、そういういろいろなとき、ふといいなあと感じるそういう感じ。

僕はいま「事実」を列挙した。だからこれは「それはなかったかもしれない」で置き換えることができる。海を眺めなかったかもしれない、ペットとじゃれあわなかったかもしれない、などなど。けれど、そういう時間が流れたことは否定できるだろうか? 部分的には妄想や捏造はあるかもしれない。手放しで面白かったなあと記憶していることは、じつはそこまで面白いことではなかったかもしれない。たんに思い出が美化されていることだってあるだろう。それらは確かめようのないことだ。なぜなら、繰り返しになるけれど、時間の流れは再現もできなければ訂正もできないからだ。

けれど大事なのは、「なんかいいなあ」と思うような記憶があることは確かなこと、そしてそういう時間の流れに未来から触れている(思い返している)ときに「なんかよかったなあ」と確かにいま思うことができること、それが大事なんじゃないか。思い返すたびに、細部は「事実」と違っていくかもしれない。記憶は「本当」ではないのかもしれない。けれどそれらは、僕たちに「なんかよかったなあ」という感触を確かに与えてくれる。なにかを思い出すたたびに「本当」の現実とは少し違った世界が生まれる。そしてややこしいけれど、そういう世界を想像しているときも時間は流れている。僕はそういう世界を(も)可能世界だと思っている。その意味で、僕たちの幸福と可能世界はとても密接に関わりをもっている、と僕は考えている。たぶん生まれてからずうっと考えていることの1つはこのことだ。

幸福について考えること、それは時間の流れにどうすれば触れることができること、さらには記憶に触れようとするたびに可能世界は生まれることと、とても密接にかかわっている。そしてこのことと、コピーとオリジナルあるいは2番目問題と僕が勝手に名付けている話しもおそらくつながる(はず)。だけれどそれについてはまた書くとして、まずは再現もできなければ訂正もできない時間の流れにどうすれば触れられるのか。

僕たちは直接現実を鷲掴みすることは本当はできない(事実や情報を認識したってそれで魂が揺さぶられないと思う)。ある時間の流れ=Aがあって、Aに直接触れることはできない。けれど、Aを喚起するなにか=A'に触れることで間接的にAに近づくことができるんじゃないだろうか。というか、そういうふうにしてしか僕たちは幸福とはなにかとか、いろんなことに触れることができない。

つまりこういうことだ。僕たちはフィクションをつうじてしか現実に触れることはできない。フィクションは無数のA'を、可能世界を生み出す。「事実」や「情報」には時間は流れていない。それはたんなる言葉でしかない。けれどフィクションのなかには時間が流れている。あるフィクションの時間の流れに身を置くこと、それによって記憶のなかにあった時間の流れのコピー(再現はできないから)を喚起すること、そしてまた現実の時間の流れが記憶のコピーと重なり合う「かのように感じる」こと、そういう無数の遠回りや勘違いをつうじて、ようやく僕たちはおぼろげながら現実に触れることができるんじゃないか。

そういう、現実とは少しずれた場所にたしかに流れている時間をつくり僕たちの記憶を喚起するもの、それを僕は芸術と呼んでいる。