時間が流れること、コピー、芸術

過去の出来事が「本当に」起きたことなのかどうか、それを「事実」として提示することを僕たちはできるのだろうか。

僕たちは自分自身が体験したことであっても、それを1秒1秒鮮明に連続して思い出すことはほとんどできない。断片的に風景や会話を思い浮かべるのがせいぜいできることで、それだってどこまで「本当」のものなのか、脚色はないのかという境界線は鮮明ではない。

昨日の夜ご飯に生姜焼きを食べたとする。その「生姜焼きを食べた」というのは事実として正しいとしても、豚肉を噛んでいるときの味わいをいま再現できるかというと、それは不可能だといっていいと思う。

昨日のことだから、食べたことは疑いようがない。けれど、食べているときの味わいは再現できない。つまり味わいは、食べているときの時間の流れのなかにしか存在しないことになる。

過去の出来事はつねに「それはなかったかもしれない」という訂正可能性にさらされている。いいかえれば、僕たちはすべての出来事にたいして「それはなかったかもしれない」と原理的に想像することができる。なぜなら「事実」としての出来事は単語や1センテンスで表される言葉だから、その言葉にたいして僕たちはその気になれば「それはなかったかもしれない」という言葉を付け加えることができる。

けれど時間の流れ(たとえばまさに食べているときに流れる時間)に「それはなかったかもしれない」と付け加えることはできるだろうか。僕はできないと思っている。なぜなら、時間の流れは言語ではないからだ。「生姜焼きを食べた」という「事実」にたいしては「それはなかったかもしれない」を付け加えることができる。けれども、生姜焼きを食べている時間の流れを言葉で訂正することはできない。

味わいは、つまり時間の流れは、再現もできなければ訂正もできない。いいかえれば、たしかにこの世界に流れていた時間は、存在していたことは否定できない(訂正できない)にもかかわらずその時間の流れのなかに僕たちがもういちど浸ることは許されない、そういうものだと考えることができる。

僕たちが幸せを感じるときはいつだろうか。ただぼおっと海を眺めている、ペットとじゃれあう、帰り道の踏切で電車が通過するのを待ちながらみる夕焼け、家族や恋人と他愛ない会話をしている、友達と手放しで面白いことをしている、そういういろいろなとき、ふといいなあと感じるそういう感じ。

僕はいま「事実」を列挙した。だからこれは「それはなかったかもしれない」で置き換えることができる。海を眺めなかったかもしれない、ペットとじゃれあわなかったかもしれない、などなど。けれど、そういう時間が流れたことは否定できるだろうか? 部分的には妄想や捏造はあるかもしれない。手放しで面白かったなあと記憶していることは、じつはそこまで面白いことではなかったかもしれない。たんに思い出が美化されていることだってあるだろう。それらは確かめようのないことだ。なぜなら、繰り返しになるけれど、時間の流れは再現もできなければ訂正もできないからだ。

けれど大事なのは、「なんかいいなあ」と思うような記憶があることは確かなこと、そしてそういう時間の流れに未来から触れている(思い返している)ときに「なんかよかったなあ」と確かにいま思うことができること、それが大事なんじゃないか。思い返すたびに、細部は「事実」と違っていくかもしれない。記憶は「本当」ではないのかもしれない。けれどそれらは、僕たちに「なんかよかったなあ」という感触を確かに与えてくれる。なにかを思い出すたたびに「本当」の現実とは少し違った世界が生まれる。そしてややこしいけれど、そういう世界を想像しているときも時間は流れている。僕はそういう世界を(も)可能世界だと思っている。その意味で、僕たちの幸福と可能世界はとても密接に関わりをもっている、と僕は考えている。たぶん生まれてからずうっと考えていることの1つはこのことだ。

幸福について考えること、それは時間の流れにどうすれば触れることができること、さらには記憶に触れようとするたびに可能世界は生まれることと、とても密接にかかわっている。そしてこのことと、コピーとオリジナルあるいは2番目問題と僕が勝手に名付けている話しもおそらくつながる(はず)。だけれどそれについてはまた書くとして、まずは再現もできなければ訂正もできない時間の流れにどうすれば触れられるのか。

僕たちは直接現実を鷲掴みすることは本当はできない(事実や情報を認識したってそれで魂が揺さぶられないと思う)。ある時間の流れ=Aがあって、Aに直接触れることはできない。けれど、Aを喚起するなにか=A'に触れることで間接的にAに近づくことができるんじゃないだろうか。というか、そういうふうにしてしか僕たちは幸福とはなにかとか、いろんなことに触れることができない。

つまりこういうことだ。僕たちはフィクションをつうじてしか現実に触れることはできない。フィクションは無数のA'を、可能世界を生み出す。「事実」や「情報」には時間は流れていない。それはたんなる言葉でしかない。けれどフィクションのなかには時間が流れている。あるフィクションの時間の流れに身を置くこと、それによって記憶のなかにあった時間の流れのコピー(再現はできないから)を喚起すること、そしてまた現実の時間の流れが記憶のコピーと重なり合う「かのように感じる」こと、そういう無数の遠回りや勘違いをつうじて、ようやく僕たちはおぼろげながら現実に触れることができるんじゃないか。

そういう、現実とは少しずれた場所にたしかに流れている時間をつくり僕たちの記憶を喚起するもの、それを僕は芸術と呼んでいる。