習作その1'について

 年明けの1月末から6月末の5ヶ月間にかけて去年書いた小説を書き直したので、そのメモを残しておくぞ。

 去年書き終わったときにもメモを残していて、そこには

長さとしては原稿用紙で約125枚になった。小説のなかの時間としては夜から朝にかけてからだからだいたい半日を書いたことになる。けっこうこれくらいが限界というか、逆に125枚は書けるなあとわかった

 とある。それが今回の書き直しで約256枚になった。倍以上。話しの筋は変わってない。去年の限界と思っていたことを分量で大きく成長できたことはとても嬉しい。書ける量が増えたというのは素朴な指標だけれどわかりやすく成長を感じる。

 前に書いたとき時点で何度も推敲したものだったけれど、年明けにあらためて読み返してみると、読みにくい箇所や不自然な繋ぎ、記述が薄いところがたくさんあった。全体の流れはいいんだけど自分が理想としているテンポではないなと思った。小説全体として厚みが足りない感じを持った。去年書き終えてしばらくは誤字とかはべつにして穴はないだろうと思っていたから、しばらく時間を置いてから振り返るのは大事だなと(素朴に)思いました。

 読みにくい箇所、文章の不自然な繋ぎ、記述の薄さはなにに起因していたのか

①主語が長い

 これは考えれば当たり前のことで一々書くのもレベルが低いんだけど、とくに風景描写をしているとどうしても修飾語(形容詞・節)の要素が多くなっていって、要素が多いとそれだけ読み手の視点が動いてしまって読みにくくなるんだよね。書き手は風景を思い浮かべながら何度も推敲するから視点が動いてもその順に理解しやすい(描こうとしている風景がわかっているから)けれど、読む手はふつう一回した文章を読まないという前提に立つと、ごくふつうに風景を思い浮かべることができない。よく友達数人は読んでくれたなと思った。とくに段落の最初の文はシンプルというか風景全体をぱっと思い浮かべられる言葉にする必要がある。定量的にいえば主語一つ述語一つ、長くても述語は二つまでが妥当で、プラス主語にかかる修飾語は二つが限度だと思った。一文目で大事なのは読み手に風景を喚起させることで、喚起させる言葉であれば、具体的な風景(視覚だけでなく聴覚や嗅覚でも)でも抽象的な言葉でもかまわないんだと思う。去年書いていたときは意図的に後者を避けていた。とにかく風景を書くことがこの小説のきもだから抽象的な言葉をつかわないようにしていた。けれどそれは書き手がすでに風景をわかっているから可能なのであって、読む手には負担のかかる文章構成だった。アングルが変わるときに大事なのは読み手に記憶や風景を喚起することで、それさえできればその後が多少アクロバティックな文章になっても読んでいける。だから書き直していると、長い一文を二文にする作業が多かった。映像で喩えると、去年書いたバージョンは最初から対象物に寄り過ぎている。最初のショットで短くてもいいから全体像を映してそれから寄っていけば、寄ったあとに多少カメラに動きがあってもけっこう付いていけると思う。

②同じ段落でアングルが変わり過ぎている

 一言でいえば改行への意識が変わった。去年のバージョンは「この段落は風景描写」「この段落は考えが広がっていく過程」のような切れ目のよさを意識していたけれど、読み返してみると文と文に不自然な繋がりが多々あった。不自然さというのは論理的にというよりアングルとして不自然だった。たとえば車で走っているシーンで実際にA→B→Cの順に建物をみたとしても、文章で「Aがあった。向かいにはBがあった。少し進むとCがあった」と書くと、読んでみるとぎこちなさを感じる。それは文章で書くとどうしても、AはA、BはB、CはCというように、パッパッパッと切り替わる印象を与えてしまって途切れているように(実際は車で進みながら見ているから3つは滑らかなはず)感じるからだと思う。つまり、ほんとうは視点を固定して一方向に向かっているのに、アングルを切り替えているように読めてしまうからだと思う。

 それで、まず前者(視点を固定して一方向に向かっている)を書きたいのなら、どんなに一文が長くなっても「。」で区切らない方がいい。ということは①と合わせて考えると、つまりそういう文章は一文目には持ってこない方がいいということになる。次に後者(アングルを切り替える)を書きたいのなら、そこでばんばん改行したほうがいいと思う。一段落に一文は、きもになるような言葉やメッセージには有効だけれど、ふつうの風景であればたんに描写ができていない印象を与えるから付随する要素も含めてできれば四文、少なくとも三文は欲しくなるから(これは僕の感覚です)そうすると小説全体の分厚さに自然と繋がっていく。逆にそれがあるからこそ一段落に一文の部分がきらめいていくんだよね。去年のバージョンを読んだときのある種の薄さは、描写の対象物は多いのだけど対象物ひとつひとつをじつはちゃんと書けていなかったからなんだとわかった。去年の自分は対象物の多さに満足していたということですね。

 加えて改行は、それ自体アングルが変わる気持ちよさがある。アニメでも(それこそエヴァがそうだけど)素早いアングルの切り替えやアングルの移り変わりが魅力になることは多々あるし、それがあるから止めの映像が引き立つ。ある種のメリハリですね。小説もそうだよなと思っていて、改行でリズムをつくるができる。改行のリズムの気持ちよさは描写や内容とは無関係の、文字独特の魅力でもある。

③文章量とリズム

 ①と②で書いたことと重なるけれど、今回書き直してみてよかったのは自分が「うまく書けてるな」と思う段落内の文章の量とリズムをけっこう定量的に把握できるようになったこと。ざっくりいえば、

  • 一段落に文章は四つ(少なくとも三文)
  • 一文目はシンプルに書く
  • 二文目は一文を補強するような形で、長くなってもいいけど展開するようなことは書かない
  • 三文目は二文目とリズムを変えるといいことが多い。二文目が長ければ三文目は短めに。あと内容がそれまでの描写から飛躍してもわりと自然と読める
  • 四文目は抽象的な言葉や心情を書いても「やってるぞ感」が薄い。むしろ余韻があって、スムーズに次の段落に繋げられる。

 もちろん上記以外を書くこともある。でも上記を基本としておくと「そこから外す」という効果が生まれるから、そういう大きい意味でのリズムをつくることができる。だから上記の条件はいってみればベースやドラムみたいなもので、去年の小説はきらめくリフはところどころあるけれどそもそも四つ打ちがままならない(自分の好きな基本リズムがわかっていない)状態で曲をつくっているようなものだった。書き終わったときはきらめくリフだけを覚えているから過大評価をしてしまうんだよね。

 最後にリズムでいえば時制(現在形・過去形・進行形)の感覚も掴めてきた。去年のバージョンは、現在形を多用することで喚起力を狙っていたんだけど、読み返してみると現在形が二文続くとけっこう違和感があったんだよね。現在形は独特の印象を与えるのは確かだけれど、文章が束になると不安定感が増すというか、少なくとも今の自分の力量だとそうならざるを得ない。現在形は段落の最初か最後の文が一番効果を発揮するような気がするし、無理して現在形で「独特な」小説を狙うよりはふつうに過去形で重ねたほうが小説全体として安定感がある(そう考えるとやっぱり海辺のカフカはすげえ)。

ざっくり書いたけどこんなとこです。

内容的には去年のバージョンで小説内の短編としてさらっと書いた部分をしっかり書いたことで「名前をつける」という部分やフィクションへの考え方について思考が進んだ(が自分でも自分が書いた意味を100パーセントは理解できていない)のでそれもいつか書くかもしれない。

エヴァでいってた「現実と想像が対になっていて、お互いをフィクションが繋ぐ」という言葉はかなり考えさせられた。それも含めていろいろとまた考えが進んでいます。