時間が流れること、コピー、芸術2

 前回の記事でいいたかったことをひとことで要約すると、

フィクションは無数のA'=可能世界を生み出し、そういうフィクションをつうじてしか僕たちは現実に触れることはできない、

ということになる。つまり

あるフィクションの時間の流れに身を置くことで、記憶のなかにある、いつの日かの時間の流れのコピーを喚起し、それがまた現実と重なり合う「かのように感じる」。そういう無数の遠回りや勘違いをつうじて、僕たちはようやく現実の輪郭をなぞることができる

のであり、そして

そういう現実とは少しずれた場所にたしかに流れている時間をつくり僕たちの記憶を喚起するものを芸術と呼んでいる

 というのがひとまずの結論になっている。

 今回は僕がよく使っている「可能世界」という言葉について、少し補足の説明したい。というのも、可能世界という言葉は多義的というか雰囲気で使えてしまう言葉でもあり、僕自身もその「雰囲気」によって本当は考えなくてはいけない点がぼやけているように思えたからだ。では僕は可能世界という言葉をどういう意味で使っているのか、詳しく整理してみたい。

 まず最初に僕の思想?(考え?)の根本を明確にする。僕は、世界は「この世界」のたったひとつしか存在しない、と思っている。ここはまず議論のスタート地点として明確にしておきたい。だから、いくらでも他の世界がありえたし、そういうべつの世界がどこかに存在している、もっといえば「この世界」は間違っていて「べつの世界」があるべきものだ、とはまったく考えていない。この文章で僕が同意できるのは「いくらでも他の世界がありえた」の部分までだ。では、どこにも存在しないはずの別の世界、つまり可能世界をつうじて現実に触れるとはどういうことなのか、それについて説明をしたい。

 可能世界ととても似ている言葉に並行世界(パラレルワールド)という言葉がある。辞書的に明確な定義があるわけではないけれど、この二つの言葉には違う印象を僕は受けている。並行世界は、現実の「この世界」とは異なる「べつの世界」が存在していることを暗に肯定している文脈で使われている。他方で可能世界は、現実の「この世界」のある瞬間に分岐(あのときこうしていたら/しなかったら)があり、現実の自分が選択しなかったほうの世界を指しているのではないだろうか。つまり可能世界という言葉は「自分が選択しなかったほうの世界の存在」を肯定しているわけではなさそうだ、という雰囲気で僕は可能世界という言葉を使ってきた。しかしそれによって議論が粗くなっていることがわかってきた。

 ここで、そもそもなぜ僕がこんなこと(可能世界だとかフィクションだとか芸術だとか)を書いているのかをきちんと書いておきたい。つまりこれは僕にとっての実存の問題だ。それはひとことでいえば、僕らはどうすれば「この世界」を肯定できるのだろうか、ということだ。そのことだけを巡って僕はこの文章を書いている。だから可能世界は、うっとうしい「この世界」の逃避場所として考えているわけではない。ほんとうはこんな輝かしい未来があったはずなのになぜ現実はこんなにクソなのか、ということの慰めに可能世界を代用したいわけではない(もちろんそう思うことはあるけどね)。そうではなく、僕の考えをシンプルに結論だけ書けば、可能世界を想像することが「この世界」を肯定することを可能にする、ということだ。ここまで書けば、僕が世界は「この世界」のたったひとつしか存在しないと思っていることが少し理解してもらいやすくなったかと思う。

 では僕が可能世界という言葉を使って表現したかったものはなんだろうか。僕の可能世界という言葉の定義は「ありありと想像が浮かぶ時間の流れ」のことだ。だから、実際に自分が体験した小さい頃の記憶も、いちども行ったことのない場所やたとえばアニメーションの風景でも〈それをありありと想像することができて、その想像に身を浸すことができれば〉それは僕のいう可能世界である。たぶんこの解釈は独特なものだと思うし、だから議論がうまく整理できていないのだと思う(ということが最近わかってきた)。つまり、へんな話しだけれど、分岐がなくても(たとえばアニメーションは自分の人生そのものではないのだから分岐はない)可能世界になる。もちろん分岐したべつの世界も、それをありありと想像することができて、その想像に身を浸すことができれば可能世界だ。

 要するに、僕のいいたいことに対して可能世界という言葉のチョイスはよくなかった笑。雰囲気で可能世界という言葉を使っていました。というわけで、今後はべつの言葉でいい変えようと思う。なにがぴったりくるかなあと考えてみて、とりあえず今後は「感触のある世界」と表現します。つまり

   ○ 可能世界→感触のある世界=ありありと想像が浮かぶ時間の流れ

 だからこれまで僕が書いてきたことをあらためて整理してまとめると、

  • フィクションは無数のA'=感触のある世界を生み出し、そういうフィクションをつうじてしか僕たちは現実に触れることはできない
  • ありありと想像が浮かぶ時間の流れが「この世界」を肯定することを可能にする

ということになります。

 最後に、いちども行ったことのない場所やたとえばアニメーションの風景でも〈それをありありと想像することができて、その想像に身を浸すことができれば〉それは僕のいう可能世界=感触のある世界である、という部分について少し詳しく書きたい。僕はつねにありありと想像できるということが大事だと考えてきた。だからこそ「もしアフリカの貧しい子供に生まれたら〜」といった類いにたいする想像力は、あまり意味がないと考えてきた。もちろん実際にアフリカに行ったり、友達にアフリカの国出身のひとがいて、そこから生まれる想像はとても意味があると思っている。なぜなら、想像のきっかけにリアリティがあるからだ。だからこそ、色々な場所に行くことや様々なひとに出会うような場所にいることはとても大事なことだと思う。想像の起点にリアリティがなければ、どれだけ正しい内容であっても言葉は空転してやがて発話者は自壊する。それは、たとえば学生運動が次第に先鋭化し内ゲバを起こした挙句に最期は自滅したことからもわかるだろう。経験に紐づかないリアリティの欠いたイデオロギーは内容によらず自壊する、僕はそう考えている(その理由は長くなりそうなので書けないけれど、簡単にいえば、言葉が意味を加速していく速度に身体の実感がついていかない、ということになる)。

 ではどうして僕は、いちども行ったことのない場所やたとえばアニメーションの風景でも条件を満たせば感触のある世界になると書いたのか、その理屈を整理してみたい。たとえば、ある作品に海の描写があって、それで風景Aが思い浮かぶ。今度はべつの作品にも海の描写があって、それで風景Bが思い浮かんだ。さらにべつの…と続けば海の描写で風景N(N=1,2,3,…)が思い浮かぶと、とりあえず図式的にはいっていいだろう。このとき、風景K(K=1,2,3,…N)は、ほかの風景L(L=1,2,3…N, L ≠ K)の影響を受けていないといえるだろうか。僕は、それはいえないと考えている。つまり、感触のある世界が「実際に眺めた海」なのか「作品でみた海」なのか「むかし作品をみたときに思い起こしたフィクションの海」なのか、そのどれなのかを決定することは原理的に不可能だと僕は考えている。懐かしいと感じる海の風景は、部分的にはかつて自分が妄想した(捏造した)海なのかもしれない、なにかの作品でみた海なのかもしれない。そこに境界線を引くことはむずかしいだろうと僕は思っている。つまり、記憶は現実とフィクションと妄想が入り混じってできている。同時に大事なのは、現実に海を眺めているときも、作品のなかの海に触れているときも、海を眺めている妄想をしているときも、等しく「この世界」の時間が流れているということ、つまり海を経験しているということだ。そこに僕のいうリアリティが担保されている。だから、フィクションでも感触のある世界になる。それが僕のいいたいことの理論になっている。

 最後に今回の内容をまとめてみます。

  • 僕がこれまで可能世界と呼んでいたのものは「ありありと想像が浮かぶ時間の流れ」のことであり、今後は「感触のある世界」という言葉を使っていく。
  • 芸術がつくりだすフィクションのなかの時間に身を置くことで感触のある世界が生まれ、それが現実の「この世界」に重なり合う「かのように」感じることの積み重ねで、僕らは現実の輪郭をおぼろげながらなぞることができる。
  • ありありと想像が浮かぶ時間の流れ=感触のある世界が「この世界」を肯定することを可能にする。
  • 感触のある世界は、フィクションによって作り出される僕たちの記憶のコピーである。
  • 僕たちの記憶は、現実/フィクション/妄想が入り混じってできていて、それらの境界線を引くことはできない(なにが現実でなにがフィクション・妄想なのかを判断することはできない)。
  • 現実/フィクション/妄想は、どれもそれに触れているあいだ等しく「この世界」の時間が流れているという点でリアリティを持っている。

こんなところでしょうか。

 というわけで次は「どうしてありありと想像が浮かぶ時間の流れ=感触のある世界が「この世界」を肯定することを可能にするのか」について書く予定です。ちゃんと結論までたどり着けるのだろうか…。