習作?その1について

 このあいだ小説を書いたけれど、あらかじめ「これについて書きたい」というテーマがあったわけではなくて、そのかわりに、いくつかルールを決めた。一つ目は「時間を飛ばさない」ということ、二つ目は「一人称で書く」こと、三つ目は「三人称の心理描写を書かない」こと、四つ目は「地名を限定しない」こと。

 一つ目の「時間を飛ばさない」というのは、「次の日の朝〜」とか「何日か経って〜」とかを使わないということで、つまり場面転換をしないということです。基本的にほとんどの小説は時間を飛ばしている。それは、それなりの時間が必要な物語(たとえば大学四年生の一年とか)とか、そういうものを書く場合に一年間の一日ずつを全部書くわけにはいかない。一年間のうち重要なことが起こる日を書くわけで、そうじゃないと一年がかりの大きな物語を書くことはできない。

 ただ僕は、重要なことが起こる日よりも、ほとんどなにも起きない日のほうが人生の時間で圧倒的に長いし、重要なことが起きた日であっても一日中ずうっときらめているわけではなくて、きらめきは一瞬のはずだと考えていて、そういう、ほとんどなにも起きない日や時間の分厚さこそが人生を肯定するんじゃないかと思っている。だからなるべく物語が加速しすぎないように(重要なことばかりを書かないように)するために「時間を飛ばさない」というルールをつくって書いた。それで実際に書き切ってみて、長さとしては原稿用紙で約125枚になった。小説のなかの時間としては夜から朝にかけてからだからだいたい半日を書いたことになる。けっこうこれくらいが限界というか、逆に125枚は書けるなあとわかったのはとても良いことだった。

 「時間を飛ばさずに書く」と初めは会話ばっかりになってしまった。でも会話ばかりだと、それはべつに小説として書く必要がないわけだから、第一稿からカウントすると最終稿では会話は30%くらいは切って、そのかわりに風景描写と「僕」がぼんやり考えていることの描写を増やした。このとき注意したのは、だらだら「思想」を書き連ねないという点で、それは「三人称の心理描写を書かない」ことと繋がるけれど、思想を書くために小説を書くわけではないからだ。だからぼんやり考えていることを描写するときは、必ず風景か会話がまず先にあって、それに引きづられる形で考える、という流れになっている。初めはこういう「思想」もなるべく書かずにいたのだけれど、風景と会話ばかりになるとそれはそれで不自然だった(僕たちはふだん色々考えているわけだし)。それで色々考えてみたら、そもそも「思想」は風景の一部だよなと腑に落ちたので、「思想」を風景と会話からひきづって展開させる形で第一稿よりボリュームを増やした。

 ちなみに「思想」は風景の一部というのは、たとえば海を眺めているといつの間にか幸せについて考えることはあるけれど、幸せについて考えているといつの間にか海を想像することは多分なくて、だから風景のなかにすでに「思想」は含まれているんじゃないか、と思ったということです。

 二つ目の「一人称で書く」というのは、自分にとって一人称が一番ごく自然に小説を書けるなと思ったからで、とくに悩まずにそれでスタートした。一人称だからといって、それが作者自身と一致しているわけではない。なんというか、GoogleMapだったら通常の地図よりもストリートビューのほうが小説を書くうえではしっくりくるなと思った。

 ただ、ひとつ工夫したのは「僕は」という表現以上に「僕たちは」という一人称複数形を多用したこと。一人称複数系は、まずは小説のなかの登場人物たちを指しつつも、文章によっては読み手や一般的な僕たち(ふつうにこの世界で生きている僕たち)も含まれるような余地を残すことで、この世界と小説のなかの世界の境界をあいまいにするような効果があるんじゃないか、ということを書きながら思って面白かったし、それがわかったことは収穫だった。

 三つ目の「三人称の心理描写を書かない」というのは、まずは一人称ならそのほかの人の内面を知りようがないのが自然だと思うからだけれど、とはいえ、べつに小説(フィクション)なのだから現実には不自然なことでも書いたっていいと思っている。実際、僕は小説のなかで一人称ならみえていないはずの風景をいくつか書いている。でもたぶん、読んでいてそこの部分に強烈な違和感を覚えることはないと思う。それこそが小説の面白い部分なのだけど、じゃあどうして「三人称の心理描写を書かない」のかというと、端的に心理描写そのものを書きたいという気持ちが全然なかったからだ。振り返ってみても、今回の小説のなかで、一人称でも、たとえば「〜で悲しくなった」とかは書いていないと思う。考えていること、思ったことを書いた部分はあるけれど、それはべつに心理描写ではない。心理の揺れ動くさま云々が小説にとって大事な要素だと思わなかったし、そもそも悲しい気持ちになったことを「悲しい気持ちになった」と書かずに表現するのが小説(に限らず創作)なんじゃないかと僕は思っている。つまり「悲しい気持ちになった」と書いたって零れ落ちてしまうものがあって、それを拾い上げるのが小説なはずだ。前回・前々回のブログで書いたことに引きつけていえば、「悲しい気持ちになった」という言葉には〈時間が流れていない〉。

 最後の「地名を限定しない」というのは、読み手が「この物語って自分の知っている風景となんか似ているなあ」と思ってもらうために実在する地名が邪魔なのと、実在する地名がすでに持っているイメージで自分の小説が下駄を履いてしまうことを避けるためです。これも前回・前々回に書いたことでいえば〈記憶を喚起する〉ということで、たとえば渋谷という文字を使うと現実の渋谷に小説のイメージが引っ張られてしまって、渋谷を知っているひととそうでないひとで落差が生まれるのが嫌だなと思った。渋谷を知っているひとにとっては「渋谷」という文字を書くだけで記憶を喚起しやすいけれど、それは小説の力ではない。

 今回の小説の舞台は、具体的にちゃんとどこかモデルの街があるわけではなくて、部分部分で「この交差点はあの時にみた○○を参考にしよう」程度のものです。だから100%の想像というわけでもないし、そのほうが描写にリアリティ(これは読み手のというより書いている自分にとっての)があるなというのは書きながら思った。もちろんこれから、地名を明らかにした小説を書くかもしれないけれど、まずは現実の地名に手助けされずに書けるトレーニングが必要だよなと今回は考えました。

 ざっと忘れないうちにまとめておく。

 次は前回のブログの続きを(ほんとうに)書くぞ。